皆に「のっぽのテディ」と呼ばれてゐた知己は、トロントの病室で小池一夫の『子連れ狼』に夢中だった。そして闘病の末に夭折した。
「手術すればすぐに善くなるらしいんだ。退院したら、ぜひアニメになったNARUTOを視たい」
と、彼は話してゐました。
すくなくとも三十年前には、北米でレンタルビデオ店に入ると Japanimation(日本のアニメ)といふ表記がある特設コーナーが既にあった。日本のアニメ製作はハリウッドの映画製作のそれとは予算の規模が違ひます。だからハリウッド映画のやうに大陸の津々浦々に宣伝されてゐるわけではありません。それなのに、ビデオ店にたちよるお客と店員たちが交はす閑語を聴いてゐると、日本のアニメのタイトルのひとつ一つが、かけがへのない作品として皆に大切にされてゐるのが分かりました。たとへば、
「いま自分は『るろうに剣心』のおかげで、死なずに生きてゐる」だとか、
「すっかり『極黒のブリュンヒルデ』の所為で、弛んでゐた私の心の琴線が、今ぢやピンピンに張ってるわよ」だとか、
今でもそんな話をよく聞きます。北米のみならず、世界には様々な宗教や、それらを背景にした価値観があるにも関はらず、この事情だけは凡そどこに行っても変はらないのでした。
「私にとってそれがいかに重要な作品かをわかってもらひたい。たゞ好きだとか夢中だとかではないのだ」
アニメについて話しはじめると韓国人の友達も、小欄のそっけない返事をこんな調子でなかなか許してはくれません。政治的な事情で彼らは特に日本については本音を話すことができなかった。しかし庶民の知性は体制側の性根を洞見してゐるのでした。げに静かなる大多数は真実の歴史を知ってゐますし、今も日本を己のマホロバとして愛してゐます。だからこそ体制側は反日のデマ宣伝に躍起になるのでした。
さやうに旅先では、日本に対する彼らの募る思ひに、重力みたいに否応なく引っぱられることが少なくありません。惻隠の情、あるいは義侠心、それは弱い者いぢめは許せない、さう「許さない」のではなく「唯たゞ許せない」気持ち、それゆゑ軽々と己を擲つ勇気。実は卑屈に生きざるを得ない海外の庶民たちは、さうした日本人の精神世界を気高いと思ふと同時に、自分たちが今まで当然だと感じてゐたことを懐疑しはじめてゐるやうにも見えます。
むかし『俺たちに明日はない』といふアメリカ映画ありました。この映画の主人公は凶悪な銀行強盗だった。これが封切られた米国では、観客の多くが、このフェイ・ダナウェイとウォーレン・ベイティが演じたボニー・パーカーとクライド・バロウに強烈な共感と支持の念とを抱くことになるのでしたが、さうして「ボニーとクライド」がアメリカで英雄視されたのは、ふたりがあくまで銀行を襲ふからでした。劇中で、銀行に家を奪られた農夫に、クライドはかう自己紹介する、
「私は銀行強盗です」
するとその情婦のボニーが、まるでわが子を誇らしく思ふ母のやうに莞爾と頬咲むのでした。
アングロサクソンと暮らしてゐますと、彼らの多くが非常に貧しいことが判ります。いつしか彼らは、成行で銀行家の奴隷になってしまったのでした。
あの映画のなかで何度かフランクリン・ルーズベルト大統領候補のポスターが映し出されます。そのポスターは一見さりげなく時代背景を描写してゐるやうにも見えますが、実はあの写し方は彼の選挙ポスターを一通りの「背景」としては扱ってゐません。たしかに何か意図がある強調が施されてゐます。それはあの大統領候補が、もはら銀行家の支援を受けて大統領に当選したからでした。彼は当然プロテスタントとして立候補した。さうして必ず同胞から裏切り者が現れ、それを潮にある民族は奴隷になる。
ワシントンの政府が尤もらしい理由を誦へながら恣意的に始める戦争よりも、はるかに長く続く苛烈な現実に、庶民は逃げ出したい気持ちを押し殺して今日も向き合ふ。そこでは消費者でなければ人間扱ひされない。庶民は「消費する奴隷」でしかなかった。その体制に銃口を向けたのがボニーとクライドだった。しかし彼らは虚しく屠られた。そんな虚しい夢を幾度も見せられて、諦めて殺伐としてゐたのが、もう嘘のやうだと感じるのは彼らが日本のアニメに逢着したときであった。何だらう、この萌え上がる心持ちは! といふその彼らの思ひの丈を、ひと言で表すとこんな感じでせうか、
「私にだって、みんなのために何かができるのだ……それほど嬉しいことはない」
そして宮崎慎一先生のことを思ひ出しました。
映画制作業から小欄は出版業に転業して参りましたで、学生のころ先生が都内で受け持ってゐたフィルム・スクールでの講義を受講してゐたのでした。彼は『キャンディ・キャンディ』のプロデューサーだった。それに『ピュンピュン丸』や『バビル2世』や『デビルマン』、それから特撮の『ジャイアントロボ』も彼のプロデュース作品だった。そして宮崎先生もまた、小欄の海外の友人たち同様「今日」といふ胡散な時代に反抗してゐたのでした。きっとだからこそ海と時を超えて、彼の番組は多くの共感を呼んだのでせう。

左=ピュンピュン丸 ⓒつのだじろう・東映アニメーション/昭和42年7月3日から同年9月18日まで、NET系列で毎週月曜日19時30分から放送。|右=バビル2世 ⓒ光プロ・東映アニメーション/昭和48年1月1日から同年9月24日まで、NET系列で毎週月曜日19時00分から放送。
宮崎先生は仕事の現場でも学び舎でも、かつて國史の授業で学んだ神話、その彼一流の解釈と自覚とを以て事に臨みました。彼のある作品のテーマ曲は、リフレインが印象的で、こんなふうに謳ひます、
みんなのために、みんなのために、未来を拓け
「三百年以上つゞいた白人による植民地支配の歴史が、たちまち終りました」
といふ己自身が目撃したその歴史を、先生は教壇に立って受講生たちに述べます。配布された科目スケジュールを見ると、たしかにその講義には「企画論」と記されてゐる。しかし先生は毎回「企画」の話になぞ一切ふれずに、大東亜戦争の意義について講義したのでした。これは異常なことだった。
講義に現れる先生は手塚先生の漫画に出てくるワレガラス先生みたいに、ズボンの裾をいつも引きずってゐた。その引きずり加減にも何か意味がありさうだ。先生は灰色の長髪をポマードで撫でつけた、還暦をすこし過ぎたくらゐの紳士でしたが、いちいちその挙措には、そのズボンの裾のやうに、何かひとを惹きつけるところがありました。それは新渡戸博士が、かの名著に記した「書生」を想起させる。曰く、
蓬髮弊衣、大いなる杖又は書物を手にし、世事關せず、焉の態度を以て大道を闊歩する多くの靑年を見たであらうか。之は「書生」であり、彼に取りては地球は小に過ぎ、諸天も高きに失しない。彼は宇宙及び人生に就いて彼獨自の說を有つ。彼は空中樓閣に住み、幽玄なる智慧の言を食ふ。彼の眼は功名の火に輝き、彼の心は知識に渇く。貧窮は彼を前進せしむる刺激たるに過ぎず、此世の財寶は彼の品性に對する桎梏であると見なす。彼は忠君愛國の寶庫であり、國民的名譽の番人を以て自認する。その美德並びにその缺點の一切を擧げて、彼は武士道の最後の斷片である。岩波文庫『武士道』新渡戸稻造著/矢内原忠雄譯
宮崎先生の講義中は常に、乾坤を切り裂く雷鳴とともに九九艦爆が教室に現れる。それは翼に大きく描かれた日の丸を赤々と翻すや、たちまち米空母の格納庫を噴き飛ばす。そして真白いゼロ戦が紺色のコルセアを追ひかけ回した。なかには唖然として「たまごっち」の世話を忘れて死なせてしまふ女の子の受講生もゐました。祖父たちが戦場で活躍した話なんてほとんど聞いたこともない世代の小欄たちにとって、それは確かに唖然とする他は何もできない時間であった。はじめのうちは授業が終はると、
「あのオッサンは、いったい何の講義をやったんだ?」
と言って訝る者もありましたが、次第に慣性によって、先生の講論は受講生たちのアルファ波に吸ひ込まれていった。そして結局その「企画論」は一度たりとも、かゝるテーマ「興亜と新秩序建設」から逸脱することなくその学期を終へました。
しかし、わが機動部隊がインド洋を席巻したころ、授業の終はりに彼は唐突に受講生たちを見据ゑてかう告げました、
「月曜日の午後六時から〈シナリオの技術〉といふゼミを毎週一回やることになったので、興味のあるひとは参加なさい」
ゼミでは授業らしい授業をされたので、小欄は先生がプロデューサーであることを初めて知りました。そして端なくも、彼が手がけた作品はすべて己がかつて特に愛したタイトルであったことが判った。愛したのは、そこに円居があったからでした。
円居とは祖父母の円居でした。わが祖父母はTVといへば大相撲中継とNHKの時報、そしてアニメ以外は視ませんでした。
記事を読む度に思はず感想を漏らしたので、ふたりは新聞もさうたう懐疑的に読んでゐたやうです。それは民政局の企て、すなはち『眞相はかうだ』を鏑矢にして始まった電波と新聞とを使ったデマ宣伝があまりも露骨だったからでした。といって何が、わが祖父母をしてアニメを支持せしめたのか。かゝる戦後体制のデマ宣伝に食傷してゐた二人には、さだめしアニメの制作現場が、宮崎慎一や吉田竜夫のやうな謂はゆる昭和一桁の世代の、体制に反抗する表現者たちの現場だといふことが、よく分かったのでせう。その当時の宮崎プロデューサーの仕事は実際、あたかもゲリラ戦のやうだった。
それは独り宮崎慎一のみにあらず。では、アニメを用ひて、どうやって先達は体制と戦ったのか。
こゝに一例として実際に『マジンガーZ』で放映されたある場面を台本に起こして挙げてみませう。この劇中では私たちの国の自立を縁の下で支へてゐる原子力が「光子力」といふ概念で表現されてゐます。マジンガーZは防衛装備品です。また母国に弓引く者たちが、革命の後に「奴隷の看守」にしてもらふつもりで忠犬になって策動してゐる様も如実に描かれてゐます。しかし彼らのルサンチマンを解放へと導くドクター・ヘルは現実には存在しない。かへって世界は再び私たちの国を必要としてゐる。この作品が諷言してみせたやうに、それが真実ではないでせうか。
第七話「アシュラ男爵の大謀略」
機械獣が街を襲ふ。
破壊された街に、美女に化けたドクター・ヘルの従僕アシュラ男爵が現れ、人々に訴へる。
美女「どうして罪もない我々がこんな目に遭はねばならないのでせう? それもこれもあの光子力研究所とマジンガーZがある所為です!」
市民たち「さうだ! さうだ!」
光子力研究所でボス(マジンガーZのパイロット兜甲児の仲間)が報告する、
ボス「おい兜! 市民のデモが押し寄せて来るぞ!」
官邸の諮問会議に召びだされた光子力研究所所長 弓教授の乗用車が市民に襲はれる、
市民たち「この悪魔め!」
投石で深手を負った弓教授を助ける兜甲児。
弓教授「甲児君、私の代はりに君が諮問会議に……」
アシュラ男爵「すべて計算どほりだ。ハーハッハ!」
官邸の会議室
甲児「遅くなりました。弓教授の代理で参りました兜甲児です」
首相「兜君、我々は光子力研究所を閉鎖する」
甲児「なんですって? それは本当ですか?」
首相「さうだ」
甲児「しかし、光子力研究所は平和利用されてゐるではありませんか? 人類の発展のために利用されてゐるのになぜ!」
首相「光子力研究所がある限り、ドクター・ヘルの破壊は続くのだ」
うなだれる兜甲児。
再び光子力研究所──弓教授の愛娘サヤカが諮問会議から戻った甲児に言ふ、
サヤカ「甲児君、わたしたちは光子力研究所を必要としてはいけないのよ!」
甲児「サヤカさん、どうしてそんなに弱気になっちまったんだ? 僕たちの苦労は本当の平和を築くための犠牲ぢやないか」
サヤカ「その犠牲を父が負へって言ふの?」
サヤカの頬をひッぱたく甲児。
甲児「大きな幸せをつかむためにみんなが少しづゝ犠牲を払ふべきなんだ! 君は肉親の怪我で心がぐらついてゐるんだよ!」
市民たちに訴へるアシュラ男爵扮する美女、
美女「彼らは私たちの犠牲なぞ何とも思ってゐないのです!」
市民たち「さうだ! やつらを倒せ!」
光子力研究所に押し寄せる市民。
機械獣に指令を出すアシュラ男爵、
アシュラ男爵「今だ機械獣! 光子力研究所を襲へ!」
傷床の弓教授に告げるサヤカ、
サヤカ「お父さん、もう光子力研究所を放棄して静かに暮らしませう」
弓教授「いま諦めてどうなる? それでは地球は悪の支配する星となってましふ。光子力を悪用する者たちと戦はねば今日までの犠牲者に仇で返すことになる。これは一個人の幸せに関することではないのだ。分かったかね、サヤカ」
サヤカ「はい……!」
この続きは本編をご視聴ください。
アニメーション番組のプロデューサーとして宮崎慎一がまづとりかゝるべき仕事はリサーチでした(といっても、それは唯コミック雑誌に連載されてゐる新作漫画をかたはしから読むことでしたが)。彼が選んだ作品にはひとつ、ある特異な傾向がみられました。それは作品の主人公たちがほとんど例外なく「孤独のヒーロー」であることでした。不動アキラを愛した妖獣ララ曰く、
誰もデビルマンの活躍知らないんだもん。可愛そうね、正義の味方って……。
彼らは誰にもその活躍を知られることなく、最後は人知れずどこかに去ってゆく。それはまさに、宮崎先生が讃へた英霊の姿そのものでした。
かくして日本人の精神世界を描いた、このアニメといふものが、海外で愛でらる真のゆゑよしは、けだし次に申し添へることにあるのではないか。
それはさかしさを徒花 * として、まづ児童の理性ではなく、情緒を育てることを旨とした。その姿勢こそが正に戦後体制に対する反抗であった。わが国の戦後教育は米英と同様に、情緒を教へる前に、まづ理性を児童に教へる。だから私たちの多くは、
「雪が溶けたら何になる」
と問はれたなら、
「水になる」
と回答する。
しかし、戦前の教育を受けた児童の多くは、
「春になる」
と回答する。
このとき理性とは、己自身の小さな理解を得むとする性であって、したがって戦後教育では、木を見て森を見ざる人間ができあがる。まづ情がなければ「己のため」でなく「みんなのため」を優先する発想にはならない。換言すれば、戦後教育では体制側にとって好都合な、欧米の大衆のやうな「使用人型」の人間のみができあがる。それでは一人びとりに指導者の気質がある、自立した知性を有した人間の社会は望めない。すなはち「まづ情緒を教へてから理性を教へなければ知性は育たない」といふ確信を以て、かゝるゲリラ戦の現場に宮崎先生たちは立ってゐた。これもまた一心に、祖国が正道に帰することを願ってのことでした。
だから作品の対象が子供であっても、それは自づと侮りとは無縁だった。だから第一級の戯曲ないし喜劇が出来上がった。換言すれば上述の諷言と同様に、それは子供騙しや愚民化政策の道具でなかった。つまり「それぎりの塞いだ」その場しのぎの表現ではなくて、きっと「みんなの将来を拓く」表現を彼らは試みた。
大人の視聴者はかゝる大人のロジックがつくるドラマ性に感銘を受ける。ドラマツルギーといふものは喜怒哀楽の表現については言ふまでもなく、たとへば序破急の展開を決定的なものにする「伝家の宝刀」のやうな象徴的な道具立てから、サウンドエフェクトや時間経過の表現のやうな瑣末なテクニックに至るまで、その形態が人形浄瑠璃であらうがアニメであらうが、それを違和感なく、合理的に、そして面白く展開させてゆくために、その国の戯曲の伝統が蓄積した術に頼ることになります。すべてを自然とシンクロさせるものはかゝる蓄積された叡智の他にないのでした。これに頼らなければカットといふカットは悉くその前後とつながらないばかりか、主人公たちは啖呵さへも吐けなくなって沈黙してしまふでせう。そして最良のドラマは名演を生みます。それは云はゞ昭和声優列伝、八奈見乗児と永井一郎の掛け合ひの可笑しさも、松島みのりと富山敬の款語に充ちてゐた憧憬も、そしてこの話題も、たぶん永遠に尽きることはなく、切りがないのでそろそろ、あのたくさんの終演の名曲のどれかを鼻歌にして幕にいたしませう。
R8.4.5 ミソラ通信
* 知能なぞに拘泥すると、ひとは将来どうなるか。かゝる「さかしさ」とは、たとへば横訛の英語で「ギフテッド」といって、わが国でも頃日もて囃されてゐること等がこれにあたります。すなはち知能検査の結果、謂はゆるIQが高いとされた児童が将来、高名な学者になったり、敏腕の起業家になるなどして大成することは、実はあまり期待できない。下のリンクは、その検査後の追跡調査の結果とそのサマリーです。このときIQとは video game のスコアのやうなものかもしれない。つまり「ゲームが上手いひとは、何をやっても上手い」とは限らない。
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0160289620300660
これは余談ですが、この追跡調査をした結果、知能検査で高得点を出した人々には、いくつかの特徴がありました。まづ彼らは思春期のころ両性的であり、また早婚だった。それから大病を患ふことが生涯なかった。それらの特徴は、およそ「知能指数」とは無関係と思はれることばかりだった。なにしろ、このIQといふものと、ひとの将来の所得や社会的地位には、あまり相関関係はなかったやうでございます。
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