
古事記 全巻/注釈・本文(訓読)古事記伝 |旅先でもこれ一冊で足りて、児童の素読用にも適した体裁の、みんなの古事記。口語対訳として『古事記物語』も併載 ミソラ通信 www.amazon.co.jp
朗読する古事記
古事記は口伝で伝はった伝へを、後世に文字起こしした記ですから、黙読するものではなくて、聴いて初めて理解できるもの、また声に出して読んでみて、初めて意味が分かるものでございます。それは「原典」を正語で読むことであり、さうすることで古語のいさゝか高い敷居がうんと低くなります。たとへば、古事記をコジキと読むのと、私たちの母語でフルコトブミと読むのとでは、ぜんぜん伝はり方が違ふ。
学問とは己のマホロバを発見することではないか。それはたゞ「懐かしい古里へ帰る」といふことだけでもないらしい。これを声に出して読むとき、水のやうにうれしく誰のこゝろにも沁む、私たちの母語が再生されます。こゝでご案内する本はまさに、そのためにミソラ通信が上梓しました書籍です。買はなくてよいので、よかったら上のリンク先で「立ち読み」していって下さい。この際「面白い」と思って下さればそれで充分です。
いま「出版不況」といはれて久しいのですが、小書は二年前に刊行した当初は月に1冊程度、今はだいたい毎月2冊から3冊くらゐお買ひ求め下さるひとがあります。およそ事業といふは主に受注などで所得を得て、その傍らで何か世間様に裨益する仕事をする、さすれば「三方よし」といふ祖の教へにも適ふのだらう。その教へは「世の中が豊かになれば、それたけ己も豊かになる」といふ道理を私たちに説いてゐる。かゝる道理の源もまた古事記にあります。これは道理もまた、実は天然自然のものではなくて──ふだんはそれこそ水源のやうに、葉草に覆はれて見えないけれど──これから示します神代に始まる私たちの祖たちの文化によって生じるといふことでございます。すると、その恩を知らなければ、私たちは虚しく、根無草として一生を過ごすに違ひない。さやうに、私たちの価値観の源や、いま私たちが日常で使ってゐる言葉の由来、それからわが国の制度や事物の起源を探る記述が、本書の註解にはたくさん含まれてゐます。本居宣長は未来の人々をもふくめた読者が、ふだん折に触れて逢着する気がゝりに答へるやうに書き著します。なにしろ宣長の訳註が直球で詳しく、しかも本文の素読ができる、この用が足る古事記は他にはありません。
とりわけ古事記は「現代語訳」などを読んで分かったつもりになってはいけない。それではイニシヘの心が解らないまゝになる。これは私たち「みんなの救国」なのですから、いま権威と呼ばれてゐる人々から「君たちはこの現代語訳を買って読みなさい」と言はれて馬鹿にされてゐるやうでは救国にならない。すなはちコトダマ(言霊)といふコトバがありますが、古事記は漢籍のやうな理屈ではなくて、正語を声に出して読む語感の楽しさからイニシヘの心が伝はります。だから誰かが意訳したものを読んでも、そのイニシヘの心は誰にも届かない。たとへば、あかねさす雲井があなたを忽ち魅了したとする。そのとき理屈があなたを魅了したのではなかった。その魅せられた彩雲に意味を見出せるのは魅せられたあなただけである。
意味といって、では古事記を学ぶことに、いったい何の意味があるのか。その最も肝心なことは、まづ古事を知ることによって──何となく、しかし確信を以て──未来が見えるやうになることでせうか。古事記のなかでは序破急のある噺がくり返されます。だから割愛などされた意訳でなく、その正語を通読しますと、おのづと次の展開がわかるやうになる。しかもそれは謂はゆる創作ではなくて、いま私たちが生きてゐる世の中の原点、ものごとの始まりの伝へですから、物語ではなくて現実の次の展開がわかるといふことです。すなはち我々が実際に岐路に立ったときに、どうすべきかが分かるやうになる。
本居宣長と平田篤胤
古事記はアメ(天)と、海底を含むツチ(地)と、ヨミ(夜見たやうな暗い国)、この三つの場面で構成されてゐますが、この天・地・黄泉は、それぞれ日・地・月(今日でいふところの太陽・地球・月)であると、平田篤胤は注釈しました。しかしそれでは鼻白む。さやうに理詰めに解釈しては、古事記を声に出して読む意味も面白さも半減してしまひます。なんといってもフルコト(古事)は、アラハニゴト(顕事)とカムゴト(幽事)で説かれてゐるからでございます。すなはち「眼に見える事と見えないこと」を以て説かれてゐるのです。この「見えないこと」とは人間には知覚できないことですが、たとへば原子や電子などは私たちには見えない。かゝる「見えないこと」が、実はこの世の中の大半を占めてゐる。後で示しますやうに、古事記に記してある、皆が「絵空事だ」と哄ってゐたことが、科学の進歩に伴って実は真実だと判ることがしばしばあります。たゞし偶々それは断片的に判ったのであって、やはり私たちに知覚できないことはあるのです。窮理を以て何でも理解したことにしたい私たちの性を理性と申します。平田篤胤が師と呼ぶ本居宣長は、その著書のなかで、折に触れてこんなことを頻りに書いてゐます。
「たゞ己が私心の小さき智を以て、物の義理を定むる例の漢國意」
これは漢人について述べながらも、ひとの理性といふものを上手に批判してゐるやうです。すなはち上の「太陽・地球・月」といへども、これはあくまで私たちに見えてゐることに過ぎませぬ。換言すれば、私たちが知覚してゐるからといって必ずしもそれが実体であるとはいへない。それは目路に映ってゐる、謂はゞ氷山の一角のやうなものだ。
まづ古事記を訳註するに際して本居宣長は曰く「然云本の意を釈は、甚難きわざなるを、強いて解かむとすれば、必僻める説の出来るものなり。古も今も、世人の釈る説ども、十に八九は当らぬことのみなり」と「今わからぬことは、とりあへず分からぬまゝにしておけば宜しい」といふ考へでした。それにしても、宣長の訳註を読むと古事記がよく分かるのは、それは彼の歌心に淵源があった。歌や音楽といふものは、およそ見えないものを表現します。だから「カタチが見える」やうな歌や音楽は芸術とはいへません。和歌もまた、もはら詠みびとが知覚したものに取材し、その編集によって知覚せざる形而上の表現をする。換言すれば、それは顕事を通じて幽事を表現するのであって、どちらか一辺倒では和歌といふ宇宙にはなりません。あるいは平田篤胤は山村才助の『西洋雑記』にある地動説などを頻々と引用してゐますので、かゝる「最新の学問」とわが国の古伝との辻褄を合はせるために、かの説を著したのかもしれません。それを理性と申します。平田先生が洋学を引いたついでに申せば、かゝる芸術のことはニーチェの『悲劇の誕生』に詳し。こゝで「アポロとディオニュソス」としてゐることが、まさにアラハニゴトとカムゴトにあたるでせうか。これは現象と実体とも換言できます。すなはち洋学でも、実体に迫らうとすれば、どうしてもそれはディオニュソス的な表現になるやうです。
二宮尊徳
およそ洋楽の旋律は旋律を楽しむためにありますが、邦楽の旋律は音色を楽しむためにあります。同様に古事記に目をさらしますと、わが国と大陸の国々との、その社会の構造の違ひが明示されます。
大陸の社会を知ってゐる者であれば、これと直ぐに比較することができますが、わが国の対岸にある東亜にせよ、大海を隔てた欧米にせよ、文化は違っても、その社会は一様に「主人と使用人」によって成ってゐる。使用人に生まれた者が主人になることは、きはめて稀なことだ。だから大多数の使用人にはどうすることも出来ない大きな理不尽が厳然としてあるし、皆それをある程度ひき受けて一生を生きる他ない。また有史以来、皆さうして生きてきたから、さういふものだと誰もが思ってゐる。
その点わが国は例外でした。それが日本で生まれ育ち、そして古事記を通読した者には必ず分かる。何ゆゑ日本だけが違ふのか。なぜ「使用人」と指呼すべき人種が日本にはゐないのか。およそ古事記はウシハクを克服する物語だった。ウシハクとは、ある者がある地域を占有し、そこに住まふ人々を彼が私物化することでございます。古事記に目をさらせば、上代から近代に至るまで、私たちの祖たちが神代以来の成行に従って、その克服を実現してきたこと、それがよく分かるやうになる。
とりわけわが国に於ける多くの儒者や「御仏に支へる」者にとって、古事記は浅薄で稚劣な書物でしかなかった。たとへばそこに済民思想(弱者を救ふ教理)があるかと彼らは問ふ。さやう、済民思想はおろか教理なぞの理屈は古事記には一切ない。換言すれば、いったい私たちの神々には「個人を救済する」おつもりはなかった。しかしその「弱者」なる者たちを生じさせない「庶民の社会」を実現したのは、いづれか。すなはち現にその「弱者」の救済を実現したのは、かゝる教理を説いた大陸の社会なのか、それとも日本の社会なのか。これに二宮尊徳こたへて曰く、
神道は豊葦原を瑞穗の國とし、漂へる國を安國と固め成す道なり。然る大道を知る者、決して貧窮に陷るの理なし。
だから日本人に生まれた者は、大陸人のやうに諦めることは、何ひとつないのでした。かゝる「豊葦原」には、いまマチカネワニと命名されてゐる鰐が生息してゐた。往時すなはち熱帯であった日本の葦原には稲が自生してゐたのでした。その水辺の治水をして、私たちの祖たちは田を拓いた。それを「豊葦原ノ瑞穗の國」と讃称したのでした。そして次の曰く「漂へる國を安國と固め成す道」とは天神がイザナギのミコトとイザナミのミコトに、
「このタヾヨヘル國を修理り固め成せ」
と詔りごちた古事記のくだりを引いてゐるのですが、この詔は将来の全日本人に対して詔はれたのでした。それを「大道」と二宮翁は説いてゐます。わが国にこの大道ある故に、二宮尊徳や豊臣秀吉のやうな、国民に裨益する哲人が庶民の中から現れる。この二人は奇しくも先の大戦後の教科書から、前者は消去され、後者は書き換へられ、まったく異なる人物として、いま青少年に伝へられてゐる。しかしこの捏造による変遷こそが、かゝる大陸人と日本人とのけぢめ、そのマコト(真実)を、まさに私たちに告げてゐるではないか。
こゝに於いて、もし日本の社会がまるで大陸のそれのやうに──すなはちウシハクに──なりつゝあると感じるひとが今あるとすれば、それは私たちが古事記を捨てたからだと換言することができるでせう。
人智を超えた秀逸な描写
いかに古事記が優れた口述で物語りされてゐるか、小欄が動画にして頃日ポストいたしました、この
「天の石屋戸のくだり」などはそれが判る好例でせうか。たゞし今日の私たちは蓋しそれに気が注かずに聞き流してしまふかもしれません。でも先に引いた本居宣長曰くカラクニゴヽロ(漢國意)を、もし私たちが捨てたなら、どんなふうにこの伝へは聴こえるでせう。
このとき世界は、お日様の天照大御神が岩屋戸にお隠れになったので、昼でも夜と一緒で、ひねもすぬばたまの真ッ暗闇になった。そこで神々は皆で打ち合はせをしまして、岩屋戸の前で歌舞を舞って歌ひ遊ぶことにしたのでしたが、なぜさうするのかは書いてありません。お日様の天照大御神が、外の様子が気になって、ほんの少しでも岩屋戸を開けたなら、そこから光線になって陽光が漏れますから、岩屋戸に隙間が開いたことは誰にでもわかる。そして「開いたら、すぐに鏡をお見せして、かう申し上げる」と神々が予め打ち合はせてあったことが、これはもう岩屋戸が開いた瞬間によくわかりますので、いちいち説明しない。この光線を描写せず、ひたすら前後関係と鏡といふ道具立てとによってこれを示し、さうすることでこの眩しさ、御光の有り難さを表現するといふのは、次にお示しするやうに、これは凡そひとの理性で工夫して出来る表現ではないのでした。だから最早「巧い」といふ次元を超えてゐます。この段のやうに映画以上に明澄な描写が、古事記では全段を通じて貫かれてゐます。
たとへば下巻で目弱王が殿上に飛び上がられて、その傍なる大刀を取りて、そのスメラミコトの頸を打斬りまつるくだりなども、一見なんでもない語り口ですが、実際に声に出して読みますと、きはめて鮮やかな絵コンテの構成になってゐます。これも人の手による工夫とは異質の、謂はゞ「巧みなのに作為がない」筆致です。同様に、戯曲では人物設定のことを仏像の彫刻に擬へてホリと申しますが、スサノヲのミコトのホリも人の手による創作とはかなり異質のやうです。
スサノヲのミコトのご性質には凡そひとの理解を超えたところがあり、もし人が創作する物語のなかで、かのミコトのやうな人物を設定するなら、さだめしスサノヲのミコトの段だけで一編の文学作品になってしまふでせう。それくらゐ紙幅を割いて言挙げせねば支離滅裂になってしまふ。しかし古事記のなかでは、さやうにくだくだしく説かずとも、スサノヲのミコトは絵空事の感も、何の違和感もなく、とても生き生きと描写されてゐます。かく様式を以て、およそ人の営みといふものが、それこそ暴力に至るまで悉く、この記では扱はれてゐます。それも現在に生きる私たちの筆致のやうに説明や描写なぞに頼むことなく、まるで完璧に練られた絵コンテのやうに、いゝえそれ以上に、まさに人智を超えた鮮やかさで記されてゐる。その調子で、今や萬人には閉ざゝれ、専門分野でしか扱はれることのなくなった物質の原子の世界にいたるまで当然扱ってみせるのですから、それは錆のやうな私たちの今日的な先入観や概念の類を忽ち剝いでしまひ、すなほな、いはゞ裸の知性を私たちに生じさせるのでした。
スサノヲのミコトはお父上のイザナギのミコトのお言ひつけにお背きになって、お母上がまします夜見の国に往ってしまひます。そのまへにミコトはお姉様に会ひに高天原にお上りになりました。そこでミコトは田の畦や溝、すなはち圃場の区画といふ「カタチあるもの」を飽くまで壊しておしまひになる。お母上がまします「夜見ノ国」とは「夜みたいな国」といふ意味です。後にこの夜見ノ国(ネノカタス国)を去る婿殿の大国主ノ神に、スサノヲのミコトは琴を授けました。楽器は明かりがなくても楽しめます。すなはち上述のごと、見えないものを表現せねば音楽ではない。和歌もまた然り。和歌は言葉の芸術ですが、今日の文芸とは些か異なり、これはありのまゝを描写しつゝ、ひたすらその言外の世界を表現する芸術でした。上の「天の石屋戸のくだり」のアメノウズメのミコトの俳優は、その音楽を視覚的に表現したのでした。するとこのアメノウズメのミコトの舞ひはすなはち、カムゴトとアラハニゴトとの媒といふことになるでせうか。この段はさやうに明暗をつかって巧みに物語りされてゐますが、古事記の清々しい鮮やかさは天照大御神のミハタラキ(お日様の効用)のやうに明く、夜に見る夢のやうに、現実よりも鮮やかでございます。
R7.12.15 ミソラ通信
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