ボツにされた記事の方が面白い

ボツになった記事などを掲載してゐます。よその媒体の取材中に、ゆくりなく逢着する情報は、媒体にとっては無価値だからこそ、この紙幅で至福の記事になる…かもです。

血液型によって、ひとの性格は本当に違ふのか|その発想の出自と松下幸之助

 こゝにはボツになった記事、いゝえ「ボツにされた記事」を主に載せてゐますが、取材で様々な現場を覗かせてもらひますと、とりわけ頃日は肝をつぶすことがしばしばあります。

 たとへば、これはある特定の企業ではなくて、いま多くの企業で実際にあることですが、採用面接の際に求職者に運勢について訊くことがあります。すなはち、

 「あなたは自分を運が良いと思ひますか、それとも悪いと思ひますか?」

 と、人事担当者が求職者に尋ねるのです。

 そして「運が良いと思ふ」と回答することを採用の条件にしてゐる。

 おのれの運が、良いとか悪いとか、それを小欄は真剣に考へたことがない。なぜなら仕事にしても私生活にしても「いま己の身に起きてゐることは、すべて己がしたことの結果だ」と思ってゐれば、およそ間違ひないからです。これは小欄が謙虚なのではなくて、それが道理だからでございます。

 この道理を示す好例としては将棋があるでせうか。

 将棋など小欄はあまり指しませんが、将棋の駒にはひとつ一つ動かし方に規則がある。またこの規則を、駒の並べ方とマス目とが束縛してゐる。だから不用意に指しますと容易に相手に攻め込まれて、忽ち王手になるやうに、この遊びはなってゐる。よくひとは勝負事で賭けをして、勝つと「ついてゐた、ついてなかった」あるいは「今日は運が良かった、悪かった」等と申します。将棋でも皆さんよく賭けをなさる。なるほど、たしかに勝負はときの運だ。たゞし少なくとも殊この将棋に於いては、その勝敗は運などではなく、必ず己の指した一手が詰み将棋を招来する。このとき、およそ己のしたことが何を招来するのか、その因果が分からない者が、曰く「運勢」なるものを信じてゐることが分かる。

 それから「血液型によって異なった性格がひとに表れる」といふ説があります。

 これも実話ですが、ある企業に、かゝる巷説を真剣に信じてゐる人事担当者がありました。これを彼は独自に解釈したのか、何か本などで読んだのか判りませんが「A型のひとは凡庸で、才気がない」と、彼は信じるに至った。そして必ず採用面接の際に求職者に血液型を彼は尋ねてゐた。それでA型のひとを落としてゐたのでした。

 己が彼の同胞であることを思ふと、小欄はかたはら痛かった。

 

ひとは言語でものを考へる

 この「かたはら痛い」といふ諺を、いま「片腹痛い」と読んで使ふひとが多いやうです。さうして相手を嘲笑ふセリフを、家人が視てゐるテレビ番組でも実際しばしば聞きます。これは決して余談でも、話を悪戯に脱線させようとするのでもない。むしろ先回りして本件の──頃日の私たちの、上述の狂気の発想の──起源に予め逢着せむとするものでございます。こゝに昭和11年1月20日発行の廣辭林があります。その「かたはら」の項にかうございます、

かた-はら-いた・し[傍痛]かたはらにありて気の毒なり

 

 するとこれは、占領中の昭和21年に曰く「表音一致」等といって仮名遣ひが政府によって変へられた、そこから生じた誤読のやうだ。たとへば箒は「葉掃き」だからその音便でハウキと仮名遣ひする。表音一致とは「この際それは忘れて、これを発音のまゝホウキと仮名遣ひせよ」といふのです。

 もし英語圏のひとが同じことを言はれたら、彼らはどうするだらうか。たとへば knit は nit と綴れと、might は mite と綴れと言はれたら。それでは箒のみならず、およそコトバのこゝろが失はれて、まづ不自由な言語になるではないか。たとへばイハフだとか、コヒだとか、ヰアヒだとか、ヲコがましいだとか、蕾のヤウなだとか、国語から意味と概念が悉く失はれる。

 英語を話す際には私たちは英語で考へるやうに、ひとは言語でものを考へる。したがってこの表音一致は本件のやうな粗忽の弊、すなはち相手のこゝろのみならず、己のこゝろさへも実は知らざるまゝ言動せしむる、短略的発想を国民にさせる傾向をもたらすだらう。さなきだに昔のひとが書いたものを読むには、誰かが「現代語訳」をしてくれるまで待たねばならなくなるだらう。

 それは日本人の知性に重大な影響を与へることでした。それゆゑ当時この昭和21年の改定「現代語をかなで書きで表す場合の準則」に対して国民から多くの不賛成の声が上がりましたが、それが黙殺されて今日にいたってゐます。今やこの「表音一致」に異議を申し立てるひとは、きはめて稀有になり、その曰く「現代仮名遣い」を、いま私たちは平然と放念してゐます。これもまた実にかたはら痛い。

 かたはら痛いとは、もちろん上の廣辭林の引用のやうに「傍痛い」であり、それは文字どほり「その言動をしてゐる本人は羞恥心がないのか、彼は平気のやうだが、その傍で彼の言動を見て聞いてゐる己の方が、恥を見せられて、痛々しく感じる」といふことでございます。それを私たちは思ひ違ひをして、ひとを侮蔑する意味に用ひてゐる。それは単純な思ひ違ひではなかった。しかと背景のある誤りだった。ふだんから「〜しませう」等と仮名遣ひしてゐるからこそ、児童でも先達が文語で「しかせむ」等と書いた意味が分かるといふものだ。さうして歴史的仮名遣ひはおのづと全国民を一流の国語博士にしてゐた。これらの私たちの言葉づかひを先達が目の当たりにしたら、どう感じるだらうか。次にお示しするやうに、これまで日本人が維持してきた高度な知的社会が、それで維持できるわけがなかった。

 

盲亀浮木のごと、頭の空隙に謬見が浸透する

 この曰く運勢にせよ、曰く血液型性格分析にせよ、ときに話半分でお喋りするのなら、それは面白いこともあるでせう。たゞし、かゝるサトビゴト(俗説)を、さやうな言葉のあやとしてではなく、まるで信仰のやうに真剣に信じるといふのは、これはどうしたことか。現に既述のやうに、いま企業の面接でこれが、その採用の基準にされてゐるのでした。それは身体だけが大人になった者のすることであった。だって、さやうなサトビゴトを真剣に信じることが罷り通るならば、今に誰も何ひとつ反省しない世の中になるではないか。

 実際なんでも運勢の所為にする者ほど短慮であり、それゆゑ諦観とも無縁であり、ひいては阿諛や讒言で保身する者であった。それはまた良いことはすべて己の幸運がゆゑと驕り、内心では誰にも感謝をしないことでもある。そしてさやうに己を幸運だと宣ふ者を企業は採用し、社会の最前線に立たせてゐる。

 わが国の社会は、さやうな口給を是とする社会ではなかった筈だ。だから昔日は、ときに自分から腹を切ることさへあった。このとき次のやうに、先に挙げた「かたはら痛い」の誤読と同様、いま私たちはおやたちの時代までその基調であった、道理を捉へむとする熟慮や成熟を、まったく国語もろとも失ってしまったことが分かる。

 すなはちこの仔細はかういふことでした。実は調べてみますと、くだんの「あなたは自分を運が良いと思ひますか?」と採用に際して企業が面接で尋ねることは、松下幸之助が生前に書きなさったことに由来してゐた。しかしそれが相当に独り歩きをしてゐる。この「経営の神様」にしても、その処世訓が同様によく引用される角さん(田中角栄総理)にしても、その言動や思想の背景に敎育ニ關スル勅語があること、この二人のやうに教育勅語を誦じられる者にはそれがよく分かる。その出典を知らずに、ある言説や思想の本意が分かるわけがない。それが道理だ。なんでもピシッとスヂが通ってゐた戦前、すなはち道理を皆が共有してゐた戦前までの社会に対して、戦後がさうでないこと、その戦前と戦後との断絶がこゝに明示されてゐます。現に戦前までの教育を受けた、謂はゆる昭和一桁の世代が、すっかり現役を退いた平成8年を、まさに潮目にして、わが国の凋落は始まった。

 まさか教育勅語を暗記するだけで、立派な大人になれるわけはない。これを有り難がって奉唱する世の中がその背景にあった。それたけの国語力もあった。それが今の私たちにできるか。すなはち松下さんや角さんのやうに小学校だけ出てゐれば、まづ一人前の人間になれた。それが戦前までの、私たちのおやたちの教育であった。その教育勅語が説くところの公徳心、すはなち、

 己のためではなく、みんなのために生きようとする心、

 神代に水源があるこの心を承知してゐれば素直に解せる、かゝる松下幸之助の、私たちのこの粗忽さへの戒めを、なんと私たちは、

「自分を幸運だと思ってゐるひとは、前向きだから、よい人材である」

 と前述のやうに曲解した。

 曲解したのみならず、この解釈の卑しさが、いかにも私たちらしいではないか。本件はそれを示す好例のやうです。

R7.12.21  ミソラ通信

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