モボとモガたちの青春グラフティ『非常線の女』にサウンドトラックをつけてみました。かうすればトーキーに慣れた私たちにも、この映画の正体がよく判るかも。
本作を監督した小津安二郎は、戦前と戦後で作風をがらりと変へました。戦後の小津監督は見合ひ結婚と家族を題材にして、同じ主題で台本とキャストを変へて、次々と佳作を世に出しました。それらは謂はゆる「紀子三部作」や『お茶漬の味』など、TVでも幾度も放映されたタイトルであり、いづれも内外で高く評価されました。
戦前の小津映画で代表的なシャシンといふと、まづ何か。映画ファンがすぐに想起するのは、やはりこの『非常線の女』でせうか。いつも小津映画に登場する不良たちは馥郁としてゐて、その貌や挙措に観客は呼吸を乱した。きっと小津さん自身に堪らなく気に入ってゐた都会の暮らしがあったからこそ、こんなふうに最高にお洒落な映画を彼は撮ることができたのでせう。己の血肉だからこそ、それはナマクラではなく、ちやんと刃がついてゐた。
校内などで狼藉をはたらく者を、いま「不良」と呼ぶやうになったさうですが、さやうな者共は実は「不良」とは縁もゆかりもない。それは文字どほり「狼藉者」と呼ばれるべき輩でございます。不良とは決して厳つい狼藉者ではなく、あくまで洒落者だった。げに不良といふ国語には比類のない響きがあります。洒落は諧謔ともいひます。わが国には俳諧といふ芸術もある。すると洒落てないものは真に芸術とは言へない。すなはち不良とは歩く芸術だ。男は三年に片頬(すはなちニコりともしない)。しかし彼は女子供を笑はせる。それを洒落と云ふのでした。
家族と不良、トラッドと反抗。どうして小津映画は戦前と戦後でかうも違ふのか。そこにもう一度フォーカスするには、本作は最適なシャシンだと思ひます。
そこにフォーカスしてみますと、今日の私たちの暮らしや世情の実体も私たちの目に明澄に映ります。しかし彼の予言と警告を理解するには、私たちは凡庸に過ぎた。いつだって私たちはその場凌ぎで、まるでアメーバのやうに目の前にあるものにしか関心がない。
戦後の小津監督は粛々と「紀子三部作」をかはきりに、必ずこれから失はれてゆくであらう幸せな、日本の家族の時間を、絶滅した鳥のドードーを学者が撮影しておいたやうにたゞ映像に「記録」するのではなく、人物の気配さへも映し得る映画だからこそ可能なその「完全な保存」のためだけにひたすらタイトルを重ねてゆきます。だから『麦秋』や『秋刀魚の味』の音色に宿った予言的な喪失感に私たちは慄然とするのでせう。『東京暮色』が近未来を描いたSF映画のやうに見えるのはその所為でせうか。

東京暮色
監督:小津安二郎/公開:昭和32年/配給:松竹|Cast:有馬稲子/笠 智衆/原 節子/山田五十鈴 他
現にあの映画は敗戦によって──いゝえ私たちが臆面もなく掌を返したことによって──どんなふうに私たちの社会が淫蕩と皮肉の色だけに染まって、よそよそしい社会に変貌するかを緻密に描写してゐるのでした。すると小津さんの憂ひは切実なものであって、これが観念的な変遷ではなかったことが分かります。実際なぜ子供に紀子と名づけるのか、私たちは知らない。昔は「紀子は二月生まれの女の子」だと誰もが知ってゐました。戦前までは二月にその字を冠した祝日があったからです。
この「モボとモガの永遠のバイブル」は、あるいは何となく「どこかで見たやうな筋書きだ」と私たちは感じることがあるかもしれません。それだけ本作はその後の不良を扱った作品に序破急を剽窃されたのでした。だから『非常線の女』を「不良を扱った作品の教科書」と指呼することもできるでせう。たゞし「いつまでも主人公たちと一緒にゐたくなる」気持ちにさせる、この小津演出一流の魔法だけは誰にも真似できなかったやうです。

みかへりの塔
監督:清水 宏/公開:昭和16年/配給:松竹|Cast:横山 準/野村有為子/笠 智衆/三宅邦子 他
小津さんと親しかった同業者の清水宏監督は、やはり一人の不良の女が物語の軸になってゐる『家庭日記』といふシャシンで「モボとモガたちが結婚した後の生活」を映画にしました。その発想が、それこそモダンで興味深いと思ひましたが、あるいは「モダン」とは生きてゆくことの切なさがむき出しになることなのかもしれません。清水監督の『有りがたうさん』は映画史上初のロードムーヴィであると同時に、まるで騒屑のやうな名画でした。戦後のメディアがひとつ覚えのやうに使った「巨匠」といふ映画監督を讃める冠称は、あるいは彼を知らぬのか、それとも彼が存在しなかったことにしたいのか、そんなふうに疑ひたくなるほど、彼は世評とは異次元の、一結杳然たる秀作を多く残しました。それらのタイトルは例外なく、自らが小説や戯曲ではなく、映画であることを喜んでゐた。しかし彼は戦後になると創作意欲をまったく失ふ。それと同じ動機を小津監督は「反抗」に変へて、戦後の小津映画を撮ったのでした。
R7.12.27 ミソラ通信
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