およそ男は、さやうに「男は」と一括りにできるけれど、女はその性別の他は何ひとつ一括りにできない。それだけ彼女たちは、ひとり一人が異なる。
この両者の岐路は、自我を意識するその瞬間にすでに顕れる。
たとへば女の子は、
「けふマユミね、幼稚園でお雛様つくったの」
などと、自分のしたことを言ふ。
男の自我は始めから己であり、したがって「俺は」と意識することから彼らの人生は始まる。この主観的な自我に対へて、女の一人称は父母が己を呼ぶその名であった。
すなはち彼女が見てゐる小さな世界の登場人物のひとりとして、彼女たちは己を自覚する。それだけ己を客観視してゐることになる。そしてこれは、とりわけ日本女性に見られる特徴でもある。*1
だから一人びとりに違った名があるやうに、その自我もまた様々であった。
同様に日本の神々は、女神も男神も、やはり己を客観視なさる。たとへば、イザナギの神がヨミの国からお帰りになって詔はく、
「吾は御身の祓ひせな。」
只人が己の身を「御身」と言ったら笑はれる。神々にとっては、己の身体も心も、己のものではなかった。
*
きっと選択的夫婦別姓・別氏制は、有史以来はじめて、わが国に返って男尊女卑の傾向を定着させることに繋がるでせう。*2
何故わが国には選択的夫婦別姓・別氏制がないのか、すなはちお嫁さんは必ず夫の戸籍に入らなければいけないのかといへば、それは私たちの慣習では、夫の給与から嫁ぎ先の財産に至るまで、一家の身代はすべてお嫁さんが管理することになってゐる、それゆゑであった。これは世界でも類を見ない慣習でございます。
これは余談になりますが、こゝに外国に類例のない習俗の、その例をもうひとつ挙げるとすれば、サブカルチャのアイドルなどがこれにあたります。これは女性を崇め奉る、わが国のきはめて特異な文化です。欧米では idol とは、すなはち奈良の大仏さんのやうな信仰の対象を意味するので、" idol "と指呼されるほどのスターは、いつでもその時代にひとり現れるか現れないかであった。わが国のやうに、それこそ神社にお祀りされてゐる神々のごと、さうあちこちに常にゐるものではないのです。同様に日本の隣国にも──芸能が盛んと雖も──このアイドル文化はない。
さなきだに、わが国では夫が妻を「カミさん」と呼びますが、さやうにヤマトヲノコが女を神さまとして拝んでゐることから察しることができるやうに、大和撫子にはこの上なく大きな権限が社会から付与されてゐるのでした。
強力な権能を健全な状態に維持するためには、必ずその権力に制限が伴はなければなりません。換言すれば、その制限が、この良習を良習として補完してゐる。
かゝる強い権能に、もし制限が伴はなければ、その権能を利用して、ひとの財産を奪ふために結婚する者、他家のプロパティを「乗っ取れ」と自分の娘を唆すなどする不心得者が現れるのは必至であった。みんな欲張りなのです。
すると気がついたら、家産がすっかり、嫁の実家の名義になってゐた、なんてことになりかねない。
これを以て、わが国の夫婦同姓・同氏制が、この大陸の人々が得意とする「乗っ取り」を抑止するための制限、すなはち「夫の所得ないし夫の生家の財産を、要するに私物にするのですから旧姓は捨なさい」といふ規則だといふことがよく分かる。
この唯一の制限をなくせば、隣国のやうに世間が女を一様に警戒するやうになるのは必然なのでした。それがあの大陸の苛烈な男尊女卑の実態であった。すなはち私たちが観念的に考へるやうな、それは偏見の類ではない。しかし何故か、選択的夫婦別姓・別氏制の必要性を訴へる人々には、わが国こそが、典型的な男尊女卑の国に見えるらしい。
いま私たちが確認したやうに、実際はまさにその対蹠なのに、あるいは騙されてゐるのか、それともとぼけてをられるのか知らむ。お仕事の都合で旧姓を用ひたければ用ひたらよいではないか。わが家人もさうしてをりましたが、何の支障もなかった。なぜなら戸籍上の夫婦別氏を認めない代はりに、通名使用を積極的に認めてくれる世間がわが国にはあるからでした。それを「男尊女卑」だと思ひ込んで、この先天的に大和撫子に付与された大きな権限を躁急に捨てゝしまふのは、甚だ短慮ではないか。
この祖たちの戒めに背いて、本制を導入したなら、ときに恥らひてぎこちなけれど、生まれながらに保障されたその尊厳ゆゑに、どこまでも素直に莞爾と微笑む大和撫子の笑みは、もう永久に見られなくなるでせう。どこか媚びた、だからこそ開き直ったやうな、外国で目にする女性の「嘘から出た誠になりますように」と祈るやうな、あの虚しい空笑ひだけが日本女性の咲ひ声になるでせう。
*
以前こんなことがありました。
平成30年に京都府舞鶴市で行はれた大相撲春巡業で、市長が土俵上での挨拶の途中で卒倒しました。その際の会場にいらした看護師の女性の行動にたいする日本相撲協会の応対、すなはち「女性の方は土俵から下りてください」と場内放送したことが問題視されました。
これを報じたニュース|ANNnewsCH
https://www.youtube.com/watch?v=iF_D4aH2eiQ
これを受けて「女性が土俵に上がれないのは差別だ」と訴へていらした、ある自民党の女性議員の議員事務所にこの僻事がひろがるのを食ひ止めたい一心であのとき下記のやうなお便りをいたしました。曰く「女は穢らわしい」と考へるのが日本の伝統的な価値観だといふのですが、実際どうでせうか。
記
──日本相撲協会は多くの修正すべき陋習を踏襲してゐますが、相撲の伝統そのものにはいっさい陋習はない、と私は考へてゐます。内館牧子氏から「中国において仏教徒の修行の場を囲み、修行僧の心を乱す障害物が入らないように」云々といふ、その論拠の説明があったさうですが、それならば枡席にも女性の観客を入れてはならぬはずです。
土俵がどうして「女人禁制」なのか、その確かな由来は実はどこにも書いてありません。それは仏教が伝来するよりもずっと前から奉納されてゐた相撲のやうな神事のみならず──わが国においては何事も大陸のやうに上意下達で「あゝだからかうしろ」と決まったわけではありませんので──いちいち「これが根拠だ」と考へられるものが残ってゐない。だから凡そ伝統の意味は祖たちの先蹤から、現代の私たちが汲みとって解釈する他ありません。すると少なくとも「女性が土俵に上がれない」ことは男尊女卑やサベツではない、といふことが直ぐに分かります。
それが分かれば、緊急時に看護婦さんが土俵に上がることを阻むことは、まるで幼児が左右の靴を履き違へるやうな稚拙な履き違へであり、それこそ陋習であることが、次のやうに容易に分かるはずです。
古来わが国では戦場には絶対に女性を行かせず、したがって戦場の累々たる屍は例外なく男たちのものでした。野良では女も男と同様の力仕事をしますが、今でも高所作業などの危険な仕事は女には絶対にさせません。女はあくまで護るべき尊い存在だからです。土俵は行司さへも帯刀し、命のやりとりをしてゐる戦場に等しい。だから女は上がらせない。何しろ日本は上代からさういふ国であった。これは確かにさう言へるやうでございます。
だから山歩きなどが好きなひとであれば、よく知ってゐると思ひますが、わが国には山深ひ地方に行きますと入口に「女人入るべからず」と記された山道が少なからずあります。もちろん異教を盲信するついでに、大陸の男尊女卑をも尊ぶ、それこそ穢らはしい行者どもが勝手に開いた曰く「霊山」の類は例外でせうが、それはうつなく「この道は確かに近道には違ひないが、霧が出るなどして遭難の危険がある道だから女子供は通るな」といふ警告なのです。旅行ガイドなどには例によって付焼刃の、上の内館説のやうな漢めきたる理屈が書いてありますが、土地のひとに訊けば真実が必ずわかります。
亦わが国では最近まで女性は船乗りになれませんでしたが、これも同じ理由からでした。いづれも命にかゝはる危険なことは本邦では女にはさせないのです。
いったい equal rights(男女同権)の訴へは unpaid work(無報酬労働)が根拠になってゐるはずです。しかし私たちの習俗では夫が俸給の全額を妻に渡して、そのなかから夫は幾らか社交費などを妻から貰ひます。これはたしかに equal ではない。むしろ日本では男性よりも女性の方に大きな権限があり、そのうへ既述のやうに特異な価値観によって、とりわけ女性の生命が優先して護られてきました。洋学の視点では凡そ日本を正しく理解することはできません。だから徳川時代の人々は儒学とは別に国学が必要であることを悟ってその学問を拓いたのでした。
欧米では女性の人権を守るには、権利といふ概念を捻出するなど、習俗を改める運動が不可欠だったことが、彼らと生活してみるとよくわかります。それだけ弱者にとって酷烈な社会だといふことです。そして彼らは異教徒に対する己の道徳的な優越性に拘泥します。だから「異教徒の国では女性がこんなにも不遇だ」「我々の社会の方がだいぶマシだ」と彼らは媒体などを通じて喧伝したくなるのでした。これと比較しますと日本では女性を護ってゐるのは権利のやうな理性ではなく、道理や自然の摂理に基づいた、慣習や常識であることがわかります。だから「女性は穢れてゐるから女人禁制の風習がある」等といふ解釈は、いったい謂はゆるカブレてゐない本来の日本人であれば、何の話だかさっぱりわからないはずです。それは飽くまで外国人の感覚や価値観を投影したものなのです。
この際ですから緊急時の対応については充分に議論をすべきだらうと思ひます。本件は「女性総理を土俵に上げる」布石とするなどの腹蔵がない限り、容易に解決するでせう。もし男と同様に女が「崇められないし、大切に護られもしない」時代が到来したなら「私たちの国の伝統の英知は、保守すべきものであって改革すべきものではなかった」といふことが誰にも分かるでせう。そんな後悔をするのはもう沢山です。
R8.1.16 ミソラ通信
*1 たとへば、北米のコーカサス系の家庭でも "baby talk" 等といって、はじめ女の子は一人称を代名詞でなく、自分の名を使はうとします。たゞしこの際すぐに両親に修正される。彼らは「一人称を "I" と言はざるは誤りである」と考へるから、必ず「 "I" と言ひなさい」とこれを言ひ直させるのです。ところが日本の女性は大人になっても、己の名を一人称にするひとが少なからずある(多くの場合、公私でこれを使ひ分ける)。このことから、日本人はひとの迷惑、すなはち身勝手でない限りは「ひとの勝手」を認め、ひとの性質におよそ干渉しない国民であることがわかります。これに対して欧米の国々では──もちろん何ら悪意があってするのではなくて、おそらく純粋な防衛本能から──集団に同調しない者を恐れ「異端視」する傾向がある。その実例を挙げるなら、米国の歯科矯正などがさうでせうか。すなはち矯正をしない者は就職もできなければ、友達もできない。だから当然さやうな社会には、その反動が伴ふ。かゝる彼らの反動的な芸術表現などを見て「アメリカは日本より自由だ」と考へるひとがあるとすれば、それは道理に暗い、本末転倒の理解なのでございます。
亦この「女児の一人称」について、試みにGoogleで検索してみますと「それは幼児性の現れである」だとか「日本人は自我が希薄なのだ」だとか、私たち日本人を卑下する見解が散見されます。しかし上の本文のやうに整理してみますと、それらの見解がいづれも浅慮、ないし偏見であることが分かります。
*2 本件には「在日隠しのための策動だ」といふ意見もあります。参議院議員の浜田聡さんがこの話をSNS上でしまして、去年はこれがxやYouTube上で話題になりました。
【虎ノ門ニュース】2024/11/15(金) 浜田 聡×原 英史|56:30
https://www.youtube.com/watch?v=O-lQWx3neZ8
外国籍の女性が日本人男性と結婚しますと、女性の国籍は母国籍のまゝ維持されて、その姓も変はりません。すなはち夫の戸籍に入らない。その外国人女性が日本人の夫と同姓になるには国籍を母国から日本に移す必要がある。きのふ最寄りの役所にも確認してみたところ、これは間違ひありませんでした。よって在日朝鮮人・中国人などの外国籍のひとは、この夫婦同姓・同氏制によって、自分が外国籍であることが配偶者に判ってしまふ。ふつう配偶者の国籍を調べる目的で、夫が妻に個人情報の提示を要求する成行にはならないから、婚姻の際に夫婦別氏を選択できれば、妻は己が外国籍であることを夫に隠し通すことができる。だから「本件はこれを嫌っての策動である」と本説は申してをります。たゞしこの説は「何故わが国が夫婦同姓・同氏制なのか」その故由を私たちがあらためて確認し得る説ではありませんので、この記事を小欄はポストいたした次第でございます。
*3 産経ニュース
https://www.sankei.com/article/20180422-SB6SZ6W6ARNATCCGY2DK6B43EQ/
──────────────────
▼ミソラ通信がポスト致しました関連動画です