サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の主人公、ホールデン少年は映画が大嫌いだった。誰かが映画の話をすると「僕の前では映画の話をしないでくれ」と、彼は耳を塞ぐ。どうしてか。
このとき著者には、必ず然るべき意図があるものです。
印刷の技術と、出版物を編集するテクニックのあひだには、ラテン・アメリカの砂塵とサム・ペキンパーのスローモーションのやうな有機的な関係があります。換言すれば、発想を俟つところがあったので、いま私たちが「雑誌」と呼んでゐる出版物にもやはり黎明の時があった。誌面といへば爾来テキストと写真をレイアウトして読ませる体裁になってゆきますが、ではそのつくりの原点はどこにあるのか。それはソヴィエト共産党の機関紙プラウダだらうと考へられてゐます。

意外なことに同紙は出版よりも新しいメディアである映画のテクニックの影響を受けることで、近代印刷技術の威力をその発行部数以上に発揮することになるのでした。実は小欄は記録映画の制作現場から出版業に転業してまいりましたので、現に誌面づくりといふものに今まで悩んだことはありませんでした。なるほど、くだんの出版の歴史を顧みれば、それもその筈です。こんなお話をしますのは、出版や映画といふメディアの違ひを超えて「何事かを伝へる」といふ人為を、私たちは今あらためて省ることはできないだらうかと、特に頃日その必要に迫られることがあるからなのです。
かゝる出版物の編集に転用された映画のテクニックはモンタージュ理論と呼ばれてゐます。これはある事件──日露戦争中に明石元二郎大佐の工作や米英の銀行家の策動によってひき起されたロシア国内の動揺、これがロシア革命の導火線となって、それを発火させたいくつかの事件が歴史に記されてゐますが、そのなかでも一番よく知られてゐるが有名な映画の題材になった「戦艦ポチョムキン号の叛乱」といふ事件でせう──この事件を扱った映画『戦艦ポチョムキン』に用ひられ、そしてこの官製映画をして名画たらしめたのがくだんのモンタージュ理論でした。この理論は「遠近の視野角を組み合はせることによって、まるで言葉のやうに一意味を伝へ得る」といふ発見を初めて明示したものであり、云はゞ「映画の文法」の発見でした。それゆゑ後世の映像表現はこのセルゲイ・エイゼンシュテインの成果をおよそ教科書的に踏襲してゆくことになります。そして新聞プラウダはこの理論を紙面のレイアウトに取り入れたのでした。
たゞし同紙のその斬新な試みは、この時点では「かういふこともできるのだ」といふことを、その効果を発見する「見る力」を持った、ごく限られた者たちに示したにすぎなかった。
実際その後の、世界の誌面づくりを大きく変へたのは当時プラウダを手に取った日本の学生たちであり、それを彼らが面白がってグラビア印刷の同人誌をつくりはじめたことから、有名なグラフ誌 FRONT(東方社)が誕生したのでした。いま FRONT のページをめくってみても、その大胆なレイアウトは近年の雑誌が失った視覚的な刺激にあふれてゐますし「すなほな発想による面白さ」といふものを思ひ出させてくれます。

FRONT NO.7 1943
エイゼンシュテインはモンタージュ理論の発想について、
“ The hai-kai is a concentrated impressionist sketch: ”
といふ一文に添へて、実際にいくつか俳句を挙げ「モンタージュのフレイズはこゝにある」と書いてゐます。*1
映画には次の画像のやうに視野角があります。

彼が俳諧に発見した「モンタージュのフレイズ」とは、次に例示するものです。
古池や蛙飛びこむ水の音
これは名句だけあってその好例であり、まづ古池といふヒキの視野を写して、それから蛙にヨリます。松尾芭蕉でもう一例挙げますと、
先づ頼む椎の木も有り夏木立
この句は、一本の椎木のヨリの画角から、その木がある木立全体を写すヒキの画角にズームバックしてゐます。さやうに俳諧は例外なく絵コンテのやうに表現される。たとへば、わが町に句碑がある中村汀女の、
秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな
この近代俳句も、秋雨といふヒキの画角からガスコンロへヨリます。また種田山頭火の自由律でも同様で、
てふてふひらひらいらかをこえた
これは蝶々のヨリから甍へのヒキです。
かうして俳諧は遠近の視野角を組み合はせることで一意をあらはします。また俳諧とはすなはち連句であり、連衆が詠んだ前後の句があってひとつの作品になってゐる。
異なる視野角を潤滑させるのは、連想や洒落のやうな形而上の想起です。だから和歌は殊更に理性に走ることなく、あくまで形而下で天下を提示して見せる。さうして質感の世界をゆくりなく彷徨ふことで作為を拒む。殊に芸術における質感とは過去に知覚した何か(たとへば、かつて浴びた大地の照り返しだとか)の記憶をひとに想起させる表現です。これは既視感と言ひ換へることもできるでせう。この日本人の芸術表現との邂逅が、西洋人をして克服すべき作為とはじめて対峙せしめたのでした。上記のエイゼンシュテイン曰く"impressionist sketch"(印象派の写生)とはこれを申します。そして彼がひらめいたこの「映画の文法」を用ひた紙面づくりが、こんどは俳諧のふるさとの学生たちに画期的な編集の様式を啓かせた。しかし先ほど来ある気がゝりが私たちの後ろ髪を引いてはゐないでせうか。
それは映画『戦艦ポチョムキン』に用ひられたくだんのテクニックは俳諧のやうな純粋な表現ではなく、観客を扇動することを試みたのであり、実際に扇動してみせたことです。では「純粋な表現」とは何か。
それはニーチェが『悲劇の誕生』のなかで、およそ芸術はアポロ的な芸術とディオニュソス的な芸術とに大別できると説くとき、かゝる「純粋な表現」とはディオニュソス的な芸術にあたります。この「アポロ的な芸術とディオニュソス的な芸術」とは、国学でいふところのアラハニゴト(顕事)とカムゴト(幽事)にあたるでせうか。両者はそれぞれ、ひとに知覚できる事とできざる事、すなはち見える事と見えない事、換言すれば現象と実体です。すなはち俳諧は顕事を通じて幽事を表現するのであって、どちらか一辺倒では俳諧といふ宇宙にはなりません。本書に与して、ヨーロッパ人には芸術を悉皆アポロ的にしてしまふ傾向があると考へるとき、この際エイゼンシュテインもまた同じ轍を踏んだことになる。すなはち俳諧が、もはら詠みびとが知覚したものに取材し、その編集によって知覚せざる形而上の表現をするのに対して、もはら映画『戦艦ポチョムキン』は形而下の扇動であった。要するにこのモンタージュ理論をつかって「この人たちが可哀想だから、あの人たちを殺せ」と本作は表現した。
かゝる「ひとの心に這入り込んで、その人の考へを変へようとする芸術」といふ、その出自の悪さを、映画は映画史の過程で克服しようと発奮しました。しかしその発奮も映画の衰退と共に霧散して、その克服すべき正体だけがデジタルに憑依して残ったのでした*2 。現に私たちは視覚媒体の影響を受けやすい。己の考へをまさに「己が考へたこと」だと私たちは信じてゐますが、実はさうではないことが少なからずあるのです。
R8.1.23 ミソラ通信
*1 Beyond the Shot (1920) The Eisenstein Reader published in 1998 by the British Film Institute.
*2 フィルムとCCD|ビデオカメラやデジタルカメラの撮像装置(CCD)は、いかに性能が向上して画質が良くなっても、その性質上かゝる質感を表現することができない。CCDはレンズを通して捉へた像が反射する光の性質に応じて、これをカラーフィルターで加色し、色を表現する。だから初期のCCDで撮影したビデオには、たとへば空の色が青くなり過ぎたり、林檎の色が赤くなり過ぎたりする(被写体の色がバランスを保てずに、一方に転ぶ)ことが頻々とあった。これに対してフィルムは、すべての色素が塗布された乳剤面が、レンズを通して感光することで、これを減色して撮像する。私たちが目を通して色を知覚する仕方もフィルムと同様であり、目は光の三原色をすべて感受してゐるけれども、やはり対象の反射率などによってこれを減色して、緑は緑、赤は赤と、私たちに知覚させる。このときフィルムによって撮影された画は私たちに、くだんの既視感を生じさせる。
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