いま頻々と「日本語の敬語は難しい」だとか「英語には敬語がない」だとか言ふひとがある。それは当然でございます。何となれば、いま小学校では国語を教へてゐないのだから。こなひだまで小欄は教育現場を取材してゐましたので、これは間違ひない。すなはち国語の授業はあるけれど全国津々浦々、わが国では誰も児童に国語を教へてゐないのです。だから、たとへば敬語の「お」の使ひ方が分からないと言ふひとがある。これは実際「それくらゐのことは分るよ」といふ人でも、大概わかってゐない。
お=your
英語と比較するひとが吾人に増えたので──すこし複雑な気分になりますが──例を英語で挙げてみますと、まづ「ひとの家」を my home とは言はない。相手の家を国語では「お宅」と言ひます。同様に自分の名刺を「お名刺」とは言はない。すなはち「お車」とは your car でございます。要するに your を諂ひで言ふのではないやうに「お」もまた諂ひで言ふのではない。これがあるから、ものが忽ち通じるのでした。
では「お醤油」だとか「お味噌」だとか言ふのはどうしてか。これは俗にいふザマス言葉の名残であり、誤用がいつしか慣用になったコトバでした。
ザマス言葉といへば、たぶん今日の私たちは、漫画のドラえもんに登場する「スネ夫のママ」や、おそ松くんの「イヤミ」の言葉づかひを想起しますが、東京では昭和30年代まで、このザマス言葉を実際に話す婦人がしばしばあった。どうしてこのザマス言葉が出来したのか。大正の御代になりますと、ずいぶん帝都では旧士族の縁談が減ったさうで、それで山手では東北からお嫁さんをもらふ成行になりました。陸奥と東京では言葉が違ひますので、お嫁さんたちは内心「早く訛りを直したい」と焦燥する。だから東京のひとの言葉づかひを真似てみる。ふだんお嫁さんたちが接する東京のひとは、住み込みの家政婦さんたちでした。家政婦さんは奥様の髪を「おぐし」と言ったり、奥様の衣服を「お着物」と言ったりします。それで奥様たちは「東京では、ものに何でも『お』をつけて話す」と思ひ違ひをした。この口真似を聞いたこの時代の子供らが、それをからかって、更にその口真似をする。さうしてこの戯言がひろく浸透して、誤用が定着したことが、往時のひとが書いたものを読みますと、よく判ります。
それから「お雛さま」や「お言葉」の「お」は、畏き辺りのことだから、吾人は丁寧に言はむとして、自づと「お」をつけて言ひます。たゞしこの「お言葉」もまた「お言葉を返すやうですが」等と言ふ例で分かるやうに、実は「あなたの発言」といふ意味なのでした。だから天皇から賜る詔は、やはりミコトノリないし御詔勅、場合によっては大詔などと申し上げるのが、これは正しい。このとき何を以て「正しい」とするのか。それは次にお示しするやうに「誰の言動かを明示できるか否か」でございます。
同じ「お」でも、これらの差別が分かりますと、英語の your 同様むつかしくない。
英語には敬語がないのか
正しい敬語を知ってゐれば無礼を生じないから、相手が誰であらうとも、自分の考へを遠慮なく言へるやうになる。たゞし、これは国語に限ったことでございます。だからといって言ひたいことを言ふ慇懃無礼にならないやうにしたい。
英語のみならず多くのヨーロッパ語族では、誰に対してものを言ってゐるのか、その立場を表すことが、すなはち敬語でございます。たとへば総理大臣の下問に閣僚が回答する際、英語では
"I will submit it today, Prime Minister."
などと、必ず回答のおしまひに、その上意下達をする相手の、権威を明示する。相手が職場の上司の場合も同様にその役職名で、教師などの場合は、必ずその姓に敬称をつけて回答する。
これを国語では、
「本日中に提出いたします。」
と、権威ではなく人称に応じた言葉づかひで表す。
だから英語圏では、たとへば駅の構内で清掃員のおぢさんに出口を訊くときなどは、決して敬語を使はない。向かうでは上記のやうに、相手の社会的地位を己と比較して、ひとは言動を変へる。国語では知らない人にものを尋ねる際には、等しく敬語を用ふ。すると「国語の敬語もまた上下関係を表現するためにある」と思ってゐるひとが、もしあるならば、そのひとはそれこそ、相当に出自が悪い(要するに夷と同質である)ことが判る。
次にお示しする、かゝる文法の用きが分かってをられない所為でせうか、これを「提出させて頂きます」等と言ってしまふひとがある。それゆゑ「日本語には have や has のやうな、人称に応じた動詞の格の使ひ分けがない」とか言ふひとも多くあります。
もしそれが真実であれば、およそひとの言動が、文脈のなかで誰の言動なのかを、私たちは十全と表現できないでせう。このとき私たちの国語は、漫画に出てくる原始人の会話のやうな、ごく卑近なお喋りに用ひる他に使ひ道のない、きはめて拙い言語になる。しかし現に英語も私たちの国語もさうではない。
国語では「言ふ」は一人称では「申す」、二人称では「仰る」等と、言葉づかひにけぢめがある。それ故いっぺん言へば誰にでも通じるやうになってゐる。たとへば「来る」であればそれぞれ「参る」「いらっしやる」「見える」などと言ひ表して「誰が来るのか」すなはち「己のことか、話し手のことか、こゝにゐない第三者のことか」を明示します。だから「いつ・どこで・だれが」を不足なく表現できる。
するとカドも立たなくなる。英語のやうに語尾だけを変化させるのでなく、かゝる人称を表す作法を国語は選択した。だから外国語のやうに「私は」「あなたは」と、鼻白む主語を連呼する必要がない程、こゝに国語は誰の言動かをはっきり明示できます。たとへば、誰かの社用のメールアドレスに大事な連絡をしたが、返事がなかった。その際およそ外国語では、かう問ひ合はせる、
「私は昨日あなたにメールしましたが、あなたは非番でしたか?」
かう訊かないと通じない。しかし国語では、
「昨日メールさし上げましたが、お休みでしたか?」
と訊けば通じる。
このとき国語では、この人称のけぢめを敢へて違へることで不敬を表現することができる。外国語には沢山ある bad language の類が国語に稀なのはそれ故でした。たとへば、
「仰ることは分かります」と言ふべきところを、
「言ってることは分かります」と言へば矩を越える。
かういふ実例があります。これは頃日NHKラジオ第一放送の夕方6時のニュース番組のなかで、ふたりのキャスターが交はした実際の会話です、
「いま日本には皇族が何人いるかご存知ですか?」
「え、何人いるか知りません(笑)」
かうして国語では相応せざる用言を敢へて使ふだけで、その対象を貶むことができる。さやうな扱ひを受けたとき、英語では、
"Don't talk down to me!" 見下した口をきくな!
等と、薄弱でないひとであれば、そして相手が上司でなければ言ひ返すでせう。新聞やTVは「親しみやすい言葉づかいで」と言ふけれど、畏き辺りに相応しからざる言葉づかひをすることに悪意があるのは、こゝに於いて明白です。つまり彼らは「今の国民は国語を知らないから、誰も気が注かない」と思って、私たちを馬鹿にしてゐるのです。実際、私たちの多くはそれに気が注かない。
発音記号は言語中枢を刺激しない
はじめに小学校で「誰も児童に国語を教へてゐない」と申しましたが、これは「教へたくても教へられない」のでした。いま私たちが話してゐる言語は「表音一致」といって、国語でない以前に、実は言語でさへない。これは発音記号であった。記号では本統の国語と繋がらないのですから、意味が分からなくなって当然です。これも例を挙げる必要があるでせうか。たとへば、
「ふたりは腕相撲でもするやうに、しっかり互ひの手を握り合った」
などと書くとき、上の「やう」は「腕相撲するやに見えた」の音便だから「やう」と仮名遣ひするのでした。また、
「その子はあの子に腕相撲しようと誘った」
と書くとき、上の「よう」は「腕相撲せよ」の音便だから「よう」と仮名遣ひします。
すると両者の比較から「せよ」とは頭ごなしに命じるコトバでないことが分かります。しかし今日のやうに、どちらも「よう」とこれらを仮名遣ひさせると、両者が混淆して、いづれもはっきりとは意味をなさなくなる。
同様に、麹はカムダチ、すなはちカビ立たせる(発酵させる)からカウヂと仮名遣ひします。すると、黴が必ずしも汚いものでないことが分かります。かうして国語はすべての学問を啓く。しかしこれをコウジと仮名遣ひすると、もはや何の意味もなさない。これは英語でも同様であり、たとへば knew を new だとか design を desine などとは綴らない。
教員たちにしても生まれたときから「表音一致」なのですから、コトバの意味を教へたくても知らない。
コトバの意味が実はわからないまゝ、平然と話したり聴いたり読み書きしたりすることは、私たちに短略的な思考を誘発します。現に短略的ゆゑに、啓蒙のつもりで「元来日本人には主体性がないから、日本語には主語がない」等と言ったり書いたりしてゐる識者は、今ごまんとゐます。そして短略的ゆゑに私たちは「このまゝ表音一致で問題ない」と発想するのでした。占領中の昭和21年に、この「現代仮名遣い」が上意下達された際には、朝野から多くの不賛成の声が上がりました。それが黙殺されて今に至ってゐます。
さやうに言語を失へば不自由が生じる。それは当然でございます。現に文章では、だいたい原稿用紙の二行までは通じるけれど、それ以上になると、直に話さないと正しく通じない。さやうなことが、もし茶飯事だとしたら、私たちが言語を失った証拠です。
R8.2.4 ミソラ通信
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