
古事記には「古代にあるはずがない」キテレツな乗り物がいくつか登場します。そのなかでも特にキテレツなのは、やはりマナシカツマの小船でせうか。
これはまさに現代の潜水艇に相当する乗り物ですが、古事記のなかで火遠理ノ命がこのマナシカツマに乗船なさって海底にあるワタツミの神の神宮におでましになります。
このくだりを原案にしたと言はれてゐますのが、有名な浦島太郎の噺でございます。しかしウラシマさんは潜水艇ではなくて亀に乗って竜宮へ往く。この御伽ばなしを話して聞かせると、きまって児童はワーッと笑ひます。
「溺れてしまふよ!」
と、子供らは言ふのであった。
もちろん人は亀に乗っては海底に行けない。さやうなこと作者もわかってゐたのであり、これは創作ですから、それは論ふことではございません。だからウラシマさんのやうに亀に乗って竜宮城へゆくのと、火遠理ノ命がマナシカツマの小船にて海底都市におでましになるのとでは、そこにとりわけ、創作の作為のあるなし、そのけぢめがはっきり顕はれてゐるのだらうと思ひます。つまり創作は平易で面白い発想を、古事記はひたすら事実を、それぞれ描写しようとするのでした。
実は古事記は、どこまでも真実を示すために記されてゐることを、以前こちらのバックナンバーに詳しく書きました ↓
ヤマタヲロチのみならず、口から毒ガスを吐くゴジラのやうな怪獣などが登場しますので、
「古事記は絵空事だ」
と、思はれてゐるひとも少なからずをられるでせう。それは「現代とは書き方の様式が異なるからだらう」と、とりあへず解釈すべきことかもしれません。
潜水艇は人が海底に潜らうとした結果できあがった乗り物ですから、潜水艇や潜水艦が製造される以前の人々にとって、マナシカツマの小舟は容易に空想できるものではありません。すると噺の聞き手も容易にこれを想像できないから、創作の道具立てとしては不向きです。ところが古事記はその誰も見たことも聞いたこともない乗り物を、くだくだしく描写することなく、たちまち読み手や聞き手にありありと想像させてしまひます。すなはちマナシカツマのマナシとは「外殻の目がつまってゐて水がなかに入らない」といふ意味らしく、カツマとは「水圧に負けない部屋」といふ意味なのだらうと、状況から暗に聴解させるのです(しかも初めて乗船する者でも、これを容易に思ひのまゝ操縦できた)。これは暗黙のうちに物の道理を介在させる能を失った──すなはち、より拙劣なる──現在の国語では、決して真似のできない、審美のわざでございます。かゝる現代文では不可能な省略が、和歌のやうに自づと、聞き手や読み手を表現に参加させる。それが話の序破急に敷衍と恍惚とした緩急とを与へる。なれど終始この効果には作為がない。作為がなくて、記してあることが現実と矛盾しないことが後世になって判ったりする。この措辞もまたひとの仕業とは思へぬ、神々しい奇しき業でございます。
かうして科学が神話に追ひついて神話を補完することも、わが国では起こり得ます。
R8.2.18 ミソラ通信
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