ボツにされた記事の方が面白い

ボツになった記事などを掲載してゐます。よその媒体の取材中に、ゆくりなく逢着する情報は、媒体にとっては無価値だからこそ、この紙幅で至福の記事になる…かもです。

神話を失った民族は本当に滅びるのか

 しばしば「言った、言はない」で、私たちは諍ふ。

 たとへば、ある高名な歴史学者が「十二、十三才くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」と、言ったとか言はなかったとか。

 もし彼、すなはちのアーノルド・トインビーが、さやうなことをどこにも書かなかったとしても、それが真実を述べてゐるので、さだめしかゝる論争になるのでせう。

 枝葉のことばかり論ってもせんのないこと。では、

 どうして神話を学ばなかった民族は滅びるのか?

 その幹のご詮議をなされば、これは澄むことでございます。まづ、

「同じ経験を共有してゐる者とは意思疎通が機微に亘って容易にできる」

 といふ事実があります。その共有ができてゐないから、今日の私たちは他人とはてんで意思疎通ができないのでせう。いゝえ、身内とさへ覚束ないひとだってざらにある。家庭内でさへその調子なのですから、かつて吾人の基調であった仔細に及ばざる、阿吽の呼吸なぞ、今や望むべくもない。それではオヤから授かった高度な知的社会が維持できるわけがなかった。しかし神話の喪失はそれだけでは済まなかった。

 実は古事記は明治維新のみならず、わが国の歴史上の岐路でひろく参照され、その度に私たちのオヤたちに救国への道を示してきたのでした。自信はその時々の気分に因るものだから、実はあまり賴りにならない。しかし自覚はいつもひとをしっかりと支へ、ぐいぐいと正しい道へと牽引してくれます。この自覚を日本人に常にもたらしてきたのが古事記でした。神代に生きたみんなのオヤたちが、私たちのために言ひ伝へたことを自分で読んだり、聴いたりできたなら、あるいは世界が違って見えるかもしれません。それなのに、いま私たちが日本の神話の原典、すなはち古事記に接する機会は、実はない。

 これまで出版された古事記の書籍は両極端でございました。一方は「現代語訳」と称して独自の解釈で創作したものですが、これは肝心な「原文の力」を読者が感受できない。いったい古事記は漢籍のやうに理屈を説いたものではなくて、その正語マサコトを声に出して読む語感の楽しさから、イニシヘの心が伝はります。もう一方は「原文の体裁を帯びて」書肆に並んでゐるものでした。岩波文庫から出てゐる『古事記』などがその例ですが、これはその表紙の写真に反して、まるで縄文時代がなかったかのやうな、要するに「古事記もまた中華文明の影響下で成った」といふ立場で訳注され、本文もまた独自の解釈で植字されてゐる。ひろく流通してゐるものについては、そのいづれかでした。そこで小欄は、誰でもアクセスできるウェブ上に、かうして古事記を──稗田阿礼が詠んだまゝを再現した古事記を──公開しておくことにいたしました ↓

 原典を「再生」したゆゑ、その本文が現代の私たちにとって些かもの遠い感があるときでも、それが私たちの母語であり、しかも無駄のない、この上なく優れたフミですから「くり返して聴けば必ずわかる」といふ確信を以てこれを制作いたしました。底本は寛政二年に発行された『神代正語』でございます。

 我々出版人の志の低さから、この『神代正語』は絶版となって久しうございます。ひと目に触れなくなって殊に惜しいのは、まづその序文の「神代正語のゆゑよし」でせうか。どうもよいものにかぎって世の中から失はれてしまふやうです。だから下記にそれを活字に起こしておきます(ウェブ上で表記できないヲドリ字は適宜改めました)。

 いったい米国の歴史家の見解を以て、わが神話を評価せむとする評価基準が、かうして現にあるといふこと、まさに私たちのこの権威の所在が洋学にあるといふその現実こそが、この救ひ難い国難の実態を示してゐるやうです。

R8.2.25  ミソラ通信

神代正語のゆゑよし

上つ代の事は.上つ代のコトバもてかたりツタへしを.それシルせるフミは.みな漢字カラモジもてシルせるが中に.ソノからぶみことばにかゝはらざるは.シルせる事もツタヘゴトのまゝなるを.からぶり詞にかはれるは.しるせる事もソノコヽロも.おのづからみなカラめきてぞキヽなさるゝを.其フミどもならひよむにも.その漢籍カラブミぶりのまゝによみならふから.よむ人のサトる心も.おのづからみなこちたきカラぶりにのみなりて.うるはしきナホき正しきスメラクニ意詞コヽロコトバをば.みなウシナひはてゝきかし.おのれはやくより.神代のフミヨムごとに.此事のいとうれたきにつきて.思ひわたらくは.書紀は.からぶみコトバのかざりをクハへられたるところし多かれば.今ことごとにイニシヘコトバには訓直ヨミナホしがたきを.古事記は.イニシヘコトバをむねとせるフミなれば.いとうるはしきふみなるを.それすらそのかみのつねとして.大かたのもじつゞけは.なほ漢文カラブミざまにしあれば.おのづからそのもじつゞきにひかれて.なほクニコトバのふりならぬも.ところどころまじらずしもあらねど.それはたことさらにかざりそへたるにはあらざれば.かたはらにカタ假字カナといふ物つけて.此古事記は.みなイニシヘコトバヨミかへしはしつべし.然はあれども.かたはらにツケたる假字カナは.かたはらなれば.なほむねとカキたるカラ文字モジに目うつりて.イニシヘコトバのかたには.もはらと心のしみがたきをば.なほいかさまにしてばよけむと.思ひめぐらして.此春のころ思ひよれるは.まづ此神世のマキばかりをだに.もはら假字カナつゞけにカキなしてば.からもじに目うつることなくて.うけばりたる ヘのみやびごとのフミならましを.とは思ひよれる物から.何くれとさしあたりてなすべきわざのしげかるには.此事とみにえ物すべくはた思へらざりしを.三月ヤヨヒの末つかた.尾 ノ国の名児 ノ里に物せしこと有て.横 ノ千秋主にアヒけるに.殊にこひもとめらるゝ事こそ有けれ.そもそも此人は.かの国には世々かろからぬツラ殿人トノビトにて.國のマツリゴトまをすべきすぢを.ことに深く心にしめて.つねは.から国の ヘの.かにかくにいつはりおほくてナホからず.殊に君をカロめて.つかヘの道にいたくそむけることをうれたみて.ひたぶるにさるをしへによる時は.おのづから ノ人のしわざいつはり多く.うはべをのみかざらひつゝ.したの心には上をカロめ.まめこゝろをしうしなひて.道の本國の本とあることわりのタヽざらむことを.いみしくかしこみナゲきて.いかでスメラオホクニの正しき道の心ばへもて. ツ心にナホくおこなひ.下が下までいつはりなく.まことのこゝろもて.まめやかに上につかへしめ. ノ君臣のオモきことわりをうまくさとして.ナガくめでたく国治めてしがと.朝よひに思ひねがはるゝ心なもいと深くして. ノすぢをつばらかにカキあらはされたるふみも.これかれとぞ有ける.年ごろ わがりコトかよはして.物とひあきらめ.すべてクニイニシヘマナビに.いともいそしき人になも有ける.カレその殊なるまめどころをおむかしみて.我も又同じ心に.ちからをそへつゝ リふるに.此度又 ノ殊にこひ求めらるゝ事は.古事記の上つマキを.イニシヘコトバ假字カナブミにかきたびてよ.はやくもシカせるたぐひはあれども.古言フルコト正しからず.つゞけざまうるはしからず.てにをはとゝのはずなどして.中々の物ぞこなひなめるを.今よくしたゝめとゝのヘてば.ウヒマナビなどのためにも.いとよきたづきならむかし.此事いかでとくと.いとねもころになもこひもとめらるなる.さるは本より古事記傳をイタにゑることも.もはら此人ぞ事おこして.物せらるなれば. ノ摺本スルマキイデぬとに.まづ此神代のかなぶみを世にほどこらし.ヨミならはせて.みやびたるいにしへことばを.口なれしめ耳なれしめて.世の人のきたなき心を.すゝぎ清めむのこゝろざしなりけり.おのれ此ねぎことを聞て.あやしみ思へらくは.此事よ.おのれ此ごろ心のうちにかつがつ思ひよれるにあはせて.此人はたかくしもねもころにいそぎ思はるゝは.神直カムナホ 大直オホナホの神の.ことなるコヽロにこそはと.いとたふとく.かつはかしこく思ひおこして.國に帰りては.あだし事どもをばうちおきて.すなはちまづ.よるひるといそぎなしたる此書になもある.かくてそのカキつゞれるさまは.古事記と書紀とを合せて.事のおもぶきいとしもコトならぬは.古事記によりて.いさゝかのたがひをば.二典別フタフミコトにはあげず シ事のコトなるをば.コトにあげて.又はかくもありとしるし.古事記にもれたる事は.書記を リて.イニシヘコトバにかへしてあげつ.又 ノ二典フタフミにはもれたる事の.ことイニシヘフミに見えたるをも.一つ二つあげつ.書紀のからぶりのかざり詞は.すべてとらず.なほこまかなるさまは.ひらき見てしるべきなり.大かた此書は.まづもはら ヘミヤビ言教ゴトヲシへむとのしわざなれば.口なれたる後の世のひがよみ.コトつゞきの便タヨリにくづれたる音などまじヘず.スミニゴリナニも.カケるまゝに.タヾしくうるはしくよみならふべき物ぞ.ゆめ一もじもみだりにはよむべからず.又もろもろの言の中には. ヘ今と もはらかはらぬも多かるを.後の世のと同じ言をば.のぞかむとすれば.しひごとになりて.なかなかに正しからねば.今はしひてふるめかさむとはかまへず.たゞ ルべきまゝに用ひつれば.なだらかに耳ぢかくして.たまたま今とかはらぬ詞もまじれるを.これ ヘのにあらじかと.ないぶかり思ひそ.又真假字マガナをおきて. ノ世の色葉イロハ假字ガナにしもかけるゆゑは.真假字マガナは.今は猶ものどほく.よみぐるしければ.うひマナビのともがらなどは.よむにコトバとゞこほりて.すがすがともえあらず.中々に口にもみゝにもならふたよりあしければぞ.

  寛政のはじめの年五月の晦

  伊勢人 本居宣長

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▼出典「神代正語のゆゑよし」

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562850?tocOpened=1

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